中越地震体験記10 ボラセンスタート 10/27(地震5日目)

10月27日小千谷市震度
震度5強-1回 震度4 – 1回  震度3 – 6回 
震度2- 21回 震度1-20回

市内避難所数136箇所29243人
皆川優太ちゃん92時間ぶり救出
登録受付ボランティア数 165人

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27日、災害ボランティアセンターが正式にスタートした。
一階の会議室を本部、外の駐車場や車庫を利用して受付や資材置き場とした。
すでに前日から、現地入りしているボランティアも沢山いたが
この日から、受付でボランティア登録を済ましてから活動することになった。

 

とはいっても、運営するスタッフ側も初体験の方が多く、
朝の登録申し込み段階で長い行列ができた。
なんとか登録も済み、いよいよ被災地に派遣しはじめた矢先に
またも震度5強の強烈な余震が襲ってきた。

 

県外から来たボランティアにとって、始めて体験する強い揺れ。
センター2階には東山地区の避難者約300人もいて一時騒然とする。
昨日の会議で、避難所や危険の少ない住居の外片付けをすることが決まっていたが、
断続的に相次ぐ余震で先の予測が全くつかない。

 

「この状態でボランティアを派遣していいのか?これからまだ震度6の
余震が来るかもしれない。事故や万一の事があったらどうするのか?」
「でも、多くの被災者が支援を待っている」
大勢のボランティアが我々の決断を待っていた。
中には待ちきれず、独自に被災地へ出向いていく人も。

 

最終的に28日の午後から避難所と屋外の作業を中心に行った。
センターを運営する本部長はじめとした私たちにとって苦渋の決断だった。
幸い事故はなかったが、人の命を預かるものとして、もし、万一のことが
あったら、生涯償っていかなければならないという思いの中での決断だった。

 

初期段階、県内JCメンバーと共に炊き出しと物資の配給を中心に活動した。
27日になると、小千谷JCメンバーも、一人、また一人と顔を出してくれた。
25日夜の緊急会議で仲間の危機的状況を聞いていたので、
本当にありがたく感じると同時に、申し訳ない気持ちで一杯になった。

 

炊き出しグループもJC関係他、全国から続々とやってくる。
人も情報もとても本部だけでは賄いきれないため
小千谷小学校グラウンドに食料、物資供給所を儲け、
本部に来る炊き出し関係者はすぐに小千谷小学校に向かうよう依頼した。

小千谷JCメンバーも、寝食を忘れて受け入れ態勢をつくってくれた。
炊き出しや、必要とする緊急物資の依頼や、団体との折衝を佐藤専務、
支援団体の現場受け入れと炊き出しを、主に星野哲孝君と高橋重尚君、
物資と食料の配送は、井口貴之君を中心に中心になってもらった。
昨日からの懸案事項であった、小規模避難所への炊き出し配送には、
どうしても多くの寸胴鍋が必要だったが、急遽山崎達也君が三条から取り寄せてくれた。
避難所の清掃用具や備品などは大川孝幸君、燃料関係は倉沢晶君等々、
それぞれの企業のネットワークを活かして即断即決、段取りしてくれた。

10月27日の炊き出しリスト

初動期に、炊き出し拠点として、ここまで体制を調える事が出来たのは、
埼玉中央JCの支援によるところが大きかった。
理事長の住吉望さんを中心に、前日から数十人単位で炊き出しと
物資の支援を行ってくださった。あわせて、住吉さんからいただいた
携帯充電器とたくさんの電池により、通信手段が飛躍的に改善された。

 

大型テントや、鍋、コンロ、備品などとても充実しており、
メンバーの統率も素晴らしかった。
特筆すべきは、数日間の支援の後、テントをはじめとした
炊き出し用具一式を、そのまま貸し出してくれたことだった。
こちらの無理なお願いを全て快く引き受けてくれただけでなく、
全てのゴミや残飯をきれいに持ち帰ってくださり、目頭が熱くなった。

 

炊き出しをしながらメンバーが、自宅前や小グループで避難している人に配給を行った。
避難所に行っていない人の中には、未だ物資を受け取る術も知らない人も多く
避難所以外の被災者への支援ををどのようしたらよいかが大きな課題となった。

 

小千谷小学校グランドで避難生活を送る人々

小千谷市内に登録した数だけで136ヶ所の避難所ができた。
それ以外に自宅近辺などで独自に避難しているグループも多い。
初動の三日間、できる限り現場を回ったが、とても全部を回って情報を集め、
対策を立てていくことはできない。時間がなすぎる。
たとえ把握できたとしても数時間後には状況が変わってしまう。

 

総合体育館や中心部の避難所、中山間地の避難所など、規模や条件の
違った数箇所へ行き、虫の目でそれぞれの状況をしっかり見て、
今、小千谷市がどうなっているのか鳥の目で俯瞰し、予測をたてて
行動していかなければならなかった。

 

「現状にあった手立てを講じよう」では遅かった。
常に「これからこうなるであろう」という予測をたてて
手を打っていかないとあらゆる事が間に合わなかった。

 

考えられる限りのことを予測し、社会福祉協議会の方やボランティア団体の方など
沢山の方々から助言を頂き、その上で今、この地域に必要なやり方は何なのか
考えて形にしていった。

 

問題は、「予測のつかない余震の中で、予測を立てていくこと」だった。