2009/10/12
市内は混乱を極めていた。
まともに食料を口にしていない人も。
中には生後10日にも満たない乳児を抱えた母親もいた。
乳児に何かあってはならないと、壊れた家から栄養食品を引っぱり出し、
母親に届けたりもした。あらゆる事が急を要していた。
女房と、二人の息子は長岡で被災、お袋は上京中だったが
夕方4時頃、家族全員と再会することができ、互いの無事を喜んだ。
再会したその場で、
「ボラセンを立ち上げなければならないので、しばらく家を空ける」と告げた。
親父とお袋は猛反対、女房は絶句した後、私の性格を知ってか
「気をつけて」と覚悟してくれた。
「受けた以上はやる」と心は決まっていた。
二児の父として、家族が死なない方策を考えた。
テントと食糧を壊れた家から持ち出して安全な場所を探した。
強烈な余震が何度も続く。
時間を追うごとに道路や建物の傷みが増してゆく。
地面にも亀裂が入り、山々の地肌が見える。
この先、このまちがどうなってしまうのか
誰も予測がつかなかった。
自分がいなくても家族が生き延びられる環境を作らなければならない。
それを考えて、我が家だけポツリ、田んぼのど真ん中にテントを張って避難させた。
1週間は帰ってこなくても、生きていける環境を作った。
息子も4歳、6歳とまだ幼く、自分がそこを離れることの後ろめたさから、
できるだけのことはしたつもりだった。